真鍋家


 平家伝説が残る切山に、ひっそりと真鍋家はあります。建築年代は17世紀末ごろと推定され、民家としては全国的にも古く、国の重要文化財に指定されています。



国の重要文化財に指定

  真鍋家住宅は昭和43年に文化庁の民家緊急調査で愛媛全県調査を行ったときに発見したもので、建物の古さ、史料ともに重要なことを認められました。昭和45年に国指定になり、さらに53年に解体修理が行われ永久保存されることとなりました。

由緒

  真鍋家所蔵の「田辺家系譜」によると、元暦元年(1184年)6月に平家の数人の武士が安徳天皇を守護して阿波の祖谷から当地切山に来て翌文治元年1月までここに居住し、2月に義経が阿波から讃岐に入った直前だろうか、天皇を讃岐の須田浦まて見送って後、阿波の田内氏と戦い敗れ、再び武士たちは切山に引きあげて代々当地に住みついたといわれている。この年の3月に壇の浦で平家は滅亡。またこの武士の一人、真鍋次郎・平清房が当家の祖先とされている。

 中世末の永禄3年(1560年)土佐から逃れてきた尾藤氏が切山のすこし西の山田井を開拓し、天正以降庄屋となり、切山、山田井両村は合体して山田井村となる。この頃から尾藤家と真鍋家は縁戚関係となり、真鍋家は百姓代や組頭をつとめ、後には庄屋となったらしい(当家系図による)。当家には天正より寛文に至る検地関係の文書や、宝永6年(1709年)の村高帳などが残っている。

民家の概説

 主屋は北面しその規模は桁行五問、梁行三間、身舎(母屋)の梁間二間、寄棟造茅葺で、外側はすべて柱を見せない大壁造りである。間取りは西(向って右)に土間、左に居室を配する。居室は土間にそって表にナカノマ、裏にオク、そして上手にザシキの三室から成る。通常の民家ではオク(寝室でナンドなどといわれる)が居室の上手裏方に配置されるが当家の場合は全体の中央裏手に配するので、「中ネマ三間取り」形式となっている。この形式の民家は四国の山間部や東予地方に広く分布しているが、当家は以下述べるようにその最も古い遺構である。

 まず注目すべきは開口部(窓、出入口)の少ないことである。土間の廻りは入口の他はすべて外大壁で閉ざし、ナカノマの表には小さい窓があるのみ、そしてザシキのみ表と東側一部に開口をとるが、その他はすべて外大壁となっている。従って開口部でも柱が一間か半間ごとに立ち閉鎖性の強いことが分かる。床はすべて竹のすのこになっている。最も注目すべき所はオクである。オクの入口は一間の中央に細い柱(方立)を立てて、半間を板壁とし、残る半間を板戸片引の開口としている。このような小さい入口の手法も古風であるが、内部の壁はすべて柱まで塗り込めて壁を厚くしている。いわゆる塗籠とはこのようなものであっただろうか?

 

 





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